ドクターサロン

池田

このたびの能登半島地震による震災では心からお見舞い申し上げます。

神野

ありがとうございます。全国からたくさんの支援をいただきました。本当にありがたく思っております。

池田

震災時における医療の備えについて、何からうかがっていいかわからないぐらいたくさんの質問がありますが、まず震災の前です。震災を想定したビジネスプランなどは立てられていたのでしょうか。

神野

2007年、今から18年前にも能登半島地震がありました。私どもの病院には古い建物もあって、そのときの震度6弱の地震で相当損傷しました。その経験から新たな病院を造り直さなければいけないということで、次の病院の新築計画が始まりました。

その次、今度は2011年に3.11東日本大震災がありました。恵寿総合病院も海のそばにあるので、東北沿岸部のいくつかの病院の方々に徹底的にヒアリングを行いました。なぜならば、東日本大地震の津波の映像を見て、多くの職員、患者さんから「恵寿総合病院、こんなところに建てていいの? 海のそばだぞ」というご意見があったからです。

しかし、私たちは民間病院として新たな広い土地を求めて別のところに行くだけの資金的余力がないので、今ある土地で新しい建物を建てたい。ならば震災が来ても、あの津波が来ても、耐えられる病院を造ろうという思いで、BCP(事業継続計画)、BCM(事業継続マネジメント)の体制をつくってきました。

池田

それはすごい話ですね。BCPを立てられるために、まず実際にシミュレーションも兼ねてBCMを行っていくわけですが、それはどのような方針で行われたのでしょうか。

神野

改築計画のときには普通の耐震建築にしようと思ったのですが、東日本大震災での経験を聞いて、まず建物は免震にしてゴムの上に建てることにしました。また、海のそばなので、液状化対策として地盤改良を徹底的に行いました。それから津波が来ても大丈夫なように、病院をかさ上げすることにしました。

水に関しても、浄水を二重化することで、町の水道と同時に、井戸水を使えるような仕組みをつくっておきました。井戸水も絶えず水質検査をして、飲めることを確認していました。電気も二回線で受電するということで、電力会社と交渉して、2つの回線から電気をいただきました。

私たちの病院は災害拠点病院ではありませんが、「津波が来たときに自分たちは逃げることができなかった」「屋上へ行ってもヘリコプターが降りてこられなかった」という東日本大震災での話を聞いたので、ならばと屋上には中型のヘリでも降りられるような大きなヘリポートもつくりました。しかも夜間に来るかもしれないから、夜間離発着設備も整えたということで、強固な病院を造ったということになります。

それが今回ズバリ当たったといいますか、免震の建物は棚のもの一つ落ちませんでした。病院周辺の水道は2カ月来なかったのですが、私たちは井戸水が使えたので、1月1日から水が使えました。電気も、一方の変電所は被災したんですが、もう一方の変電所は自家発電が動くもっと前に、自動的に切り替わりました。こうして1月1日から、災害でも医療を止めないということができたのかなと思います。

池田

インフラも含めて先生方が準備していたことが軌道に乗って、医療の断絶がなかったということですね。

神野

設備的にはそうですね。私たちの病院は、この免震の本館以外にもまだ古い建物はあり、それらはやはり相当損壊しましたが、急性期機能が全部備わっている新しい本館に関しては全く損害がありませんでした。

また、私たちは全国の病院、材料、薬剤、エネルギーの会社と協定を結んでおきました。それもうまく発動したということになります。

加えてDXです。いろいろなICT、あるいはDXの仕組みをつくっておきました。今回それも非常に役に立ったのです。一つだけご紹介すると、2023年4月にスマートフォン520台を入れて、昼間働いている職員は全員1人1台を持てるようにしておきました。今回の震災で古い病棟が損傷したとき、本館にある化学療法室や内視鏡室を仮設病棟にして患者さんを収容しました。スマートフォンで電子カルテのすべてが見られる、あるいは連絡ができるような仕組みにしておいたので、仮設病棟でも通常どおり医療を継続できたというように、DXも非常にうまく作用しました。

池田

スマートフォンからカルテ自体も見られるということですね。

神野

はい。カルテも見られますし、入力もできます。もちろん電話もかけられる、チャットができるということでしょうかね。

池田

それは素晴らしいですね。仮設病棟の冷暖房はどうなっていたのでしょうか。

神野

免震だった本館の建物は2013年にできた建物ですが、ここは全く被害がなかったので、冷暖房も通常通り動きました。水道は来ませんでしたが、井戸水を使って通常通り水を供給できました。

池田

ちょっと破損した建物の患者さんはどうでしたか。

神野

1月1日の夜、急遽移動していただきました。古い病棟は、天井が落ちてきたり、水漏れしたり、冷暖房が止まったりしたので、エレベーターが動いていなかったのですが、動けない方は職員たちが担架で新しい病棟に移しました。

池田

それはマンパワーもたいへんでしたね。震災直後から2、3日まで慌ただしく過ごされたと思いますが、職員は不眠不休の状態でしたよね。その間の休息、あるいはシフトの交代などはどうされたのでしょうか。

神野

おっしゃるように、職員もほぼ被災者です。約1割の職員は自宅以外に避難していました。避難所から来てくれた職員もいます。七尾市内の道路は相当ガタガタになりましたが、何とか動ける状態だったので、避難所からでも職員が使命感で集まってくれたのが非常に大きかったです。

一方で、例えば小学校や中学校、保育園がみんな避難所になったりして休校になったので、子どもたちの世話のために出てこられない職員もいました。そこで、1月9日になりましたが、病院の会議室に急遽、学童、託児所をつくりました。29人の職員の子どもたち40人をそこで見て仕事に就いていただき、疲れた職員と交代をすることができました。

生後6カ月の赤ちゃんから中学生まで、その会議室で皆さん遊んだり勉強したりしていました。

池田

今ではなかなか見られない光景ですね。懐かしい感じですけれども。

神野

そうですね。

池田

その間も出産など、待ってくれない状態の患者さんがたくさんいらっしゃったと思います。

神野

おっしゃるように出産は、能登一円で、機能している病院がうちの病院だけでした。私たちの病院でお世話している妊婦さん以外にも、ほかの病院あるいはクリニックの妊婦さんが集まってきました。発災10時間後、1月2日の午前2時5分に最初の赤ちゃんが生まれています。これも水が十分にあり、もちろん電気、それから施設が機能していたということが大きかったかと思います。

池田

そして出産がうまくいったのですね。

神野

無事出産できました。

池田

皆さん、期待して生まれてくるのを待っていたんですから、無事に生まれてくるというのは家族の方も非常に安心したと思います。

神野

私たちも赤ちゃんを見るとホッとしますもんね。

池田

それでまた職員の士気も上がるかなという気がしました。今回は、まず急性期といいますか、震災直後から1週間ぐらいまでの話をしていただきました。素晴らしい病院とスタッフで素晴らしい結果を残されましたが、その中でも、ここは改良したほうがいいというポイントはありますか。

神野

一つだけ挙げるとするならば、地域住民の方のお世話をどこまでやるのかということを、もう少し事前に決めておけばよかったかと思います。というのは、津波警報が出た時点で200人ぐらいの方が私たちの病院に集まってこられました。その方に対して、もちろん救急とは別の外来部門でお世話をしたのですが、毛布や食料、水などを提供するのに十分なものは、まだ足りなかったかなと思っています。

池田

そこはある意味で想定外でしたよね。

神野

そうです。患者さんのお世話の分のいろいろなものの用意はきちんとあったのですが。私たちは地域あっての恵寿総合病院だということで、拒絶することなく、津波避難所として開放しました。いざというときはお互いに助け合おうという防災協定を結んでいましたので、そういった意味もあって地域の方が集まってこられたんだと思います。

池田

ありがとうございました。