ドクターサロン

齊藤

杏林シンポジアが始まって約60年ですが、永井先生は30年ほど前に編集委員をされておりました。今回は永井先生に日本の医学の歴史と医療政策の第1回として、江戸末期からの日本の医療政策の背景をお話しいただきます。

永井

医学の歴史を知ることで、日本の医療の特徴や、どういう背景で医療制度が創られ、あるいは日本の医療の底流にある考え方などを理解できます。

世界の医学の歴史を俯瞰すると、ヒポクラテス医学、すなわち患者に寄り添う医療が基本であり、体液の異常が病気の原因として重視されていました。ヒポクラテス医学はギリシャ、ローマ、イスラム世界を経て、12世紀頃にヨーロッパに伝えられました。その影響は大きく、19世紀まで強い力を持っていました。その間、フランス革命後には病理学と臨床医学を統合するパリ医学の時代があり、その後、19世紀の半ばにドイツの若手研究者を中心にして科学的医学が勃興しました。17世紀以来、科学革命の時代となり、物理学と化学が発展しましたが、医学は科学の中では遅れていました。

この状況に不満を持ったドイツの若い研究者が、物理学や化学に基づく生理学をつくる、その生理学を基に臨床医学をつくるという革命的な活動を始めたのが19世紀中ごろです。

ちょうどその時に日本は開国し、それまでの蘭学やイギリス医学の流れから、世界の潮流に合わせてドイツ医学に転換しました。その舵を切ったのが佐賀藩の藩士で、教育担当だった相良知安です。

齊藤

ちょうど明治維新の時期で戦争があり、外科治療などでイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが重要な役割を果たしていましたが、相良知安はドイツ医学の採用に方向づけたのでしょうか。

永井

そのようです。それだけドイツ医学が革命的だったのですね。例えばそれまでも細胞の存在は知られていましたが、細胞は間質液の結晶と考えられていました。これに対しドイツのウイルヒョウが、細胞は細胞から分裂し、細胞が組織やコミュニティーをつくり、そこで病気が起こるという細胞病理学を確立しました。これによって医学のパラダイムが一気に変わり、世界中から医師がドイツに集まり研究をし、ドイツ医学を学びました。

維新戦争で新政府軍はウィリアム・ウィリスというイギリス人医師の治療を受けていたのですが、ウィリスは西郷隆盛の世話で鹿児島の医学校で教えることになり、東京を離れます。こうした経緯で日本全体としてはドイツ医学に舵を切りましたが、薩摩の関係者、特に海軍軍医はイギリスに留学しました。

齊藤

その頃、イギリス系、英語系の医学の影響はどうだったのでしょうか。

永井

幕末の蘭学もドイツ医学の影響をかなり受けていたようで、『解体新書』の原書も元はドイツ語の解剖学書のオランダ語訳でした。ただ中国の上海にホブソン(合信)というイギリス人医師が長く滞在して、内科や産婦人科の本を漢文で書いていました。それが日本に入ってきて、レ点をつけて読まれていたので、イギリス医学も一定の影響を与えていたと思います。

齊藤

1867年に福沢諭吉がアメリカに行き、英文の洋書を大量に買ってきた中に医学書があり、それを日本語に訳した松山棟庵という人もいました。

永井

中国経由で入ってきたホブソンの『内科新説』は松山棟庵よりもう少し前の話です。

齊藤

相良知安がドイツ医学の方向に舵を切り、今の東京大学の基が出てきたということですね。

永井

最初の医学塾は長崎に設立され、シーボルトが医学教育を行いました。シーボルトもドイツ人でした。その後、オランダの海軍軍医のポンペが体系的な医学教育を始め、幕府の御典医や各藩の藩医が全国から長崎に集まり、西洋医学を学びました。それが日本の近代医学教育の始まりです(1857年)。さらに翌年、江戸に設立された種痘所で医学講習が始まりました。

興味深いのは、ポンペの『日本滞在見聞記』の記述です。ポンペが診察する患者は、身分の高い役人ばかりでした。患者に階級はないことを教えても、弟子たちはそれが理解できませんでした。ここに一つの日本における近代医学の受容の特徴が現れています。適塾から移ってきた長與專齋の記録にも、学生たちが裕福で、懐中時計を持ち、洋書を積み重ねて座布団を敷いて勉強していたという話が残っています。

当時の御典医や藩医は準士族扱いだったため、士族に列することを願っていました。こうした階層が近代医学を受容したということ、また明治維新自体も武士層による政権交代だったことが、明治以後の日本の医学を特徴づけました。明治維新後は軍医の養成が急がれ、多くの医学部卒業生は軍医になったために、日本では患者に寄り添うヒポクラテス医学を学ぶ余裕があまりありませんでした。こうした精神文化は日本の医学に長く影響を与えたように思います。

齊藤

医師の「師」が違うのですか。

永井

そうです。明治3(1870)年に相良知安は「医士」を建議しましたが、その「シ」は、「師」の医師ではなく、武士の「士」でした。

江戸時代の医師は、僧侶、絵師と同列で身分制度の外に置かれていました。御典医は帯刀を許されましたが、士族ではありませんでした。明治維新直後はまだ階級制度が残っていたので、士族の精神文化に憧れた人たちが近代医学を受容したことは日本の医学の一つの特徴です。

日露戦争の頃、すでに東大の医学部卒業生の約8割は陸軍あるいは海軍の軍医になりました。昭和の戦争の時代も同じような状況で、特に本土決戦に備えて医師は大量に養成されました。

昭和20(1945)年当時、国は約5,500人の医師を養成していました。それを戦後20年間に2,000人余りにまで抑えました。昭和36(1961)年に国民皆保険制度が始まり、患者数が一気に増えるなか、インターンや大学の無給医局員を動員せざるを得ませんでした。これが昭和40年代の大学紛争の背景にあったと考えられます。

齊藤

一気にお話は戦後に来ましたが、医局制度がずっと残ってきて、それを先生が中心となり、大改革を起こしましたね。

永井

我々の世代は大学紛争を経験し、いろいろな矛盾を感じました。病院の組織構造はシステムとしてではなく、講座や医局単位で動いていました。医師は精神的にもサムライと同じで、お家主義と個人の独立心が強いのです。

他の講座には口を出さないという縦割り意識と、講座単位の上下関係のなかで動く組織でした。

2004年に国立大学が法人化され、今まで現場の大きな制約だった国家公務員総定員法が適応されなくなり、大学病院のあり方も見直されました。病院組織をシステムとして運営しないといけない。そのためには講座や医局単位ではなく、病院を機能集団に変える必要があります。例えば医局も病院の制度として位置づけられていたのですが、病院の運営を困難にするため、これを廃止しました。病院組織をフレキシブルにするために、入院診療運営部、企画経営部、医療安全研修部などの機能集団をつくり、病棟医長は入院診療運営部、旧医局長には企画経営部に参加してもらいました。

医局は廃止、診療科の科長は1年任期としました。教授は位階ですが、科長は役職ですので、毎年評価をしながら見直す。診療科長会は諮問機関であり、執行部に決定権をもたせました。

齊藤

明治100年の歴史をそこで一気に変えてしまったわけですが、先生はさらっと変えてしまったということですか。

永井

その必要性は皆感じていたのですが、どのようにしたらよいかわからなかっただけです。

齊藤

その方向性を示したのですね。

永井

医学の歴史を知り、組織の仕組みを理解していれば、それほど難しくありません。その時に多くの人材が集まりました。この時の改革は現在、いろいろな大学病院の運営の基本になっています。

齊藤

どうもありがとうございました。